【らんまん】南方熊楠の読み方は?近代日本の天才博学者の生き方wiki!

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2023年前半のNHK連続テレビ小説【らんまん】は、「日本植物学の父」と称される牧野富太郎がモデルの物語です

神木隆之介さんが主人公・槙野万太郎を演じ、江戸末期から昭和の激動の時代を生き抜き、明るく草花と向き合い続けた人生を描いています。

その中で、万太郎に『南方熊楠』という人物から植物の標本が送られてきますが、『南方熊楠』とはどう読むのでしょうか?そして一体、何者なのでしょうか?

ここでは『南方熊楠』の読み方や、『南方熊楠』とはどのような人物であったのかを見ていきましょう!

【らんまん】南方熊楠の読み方は?

『南方熊楠』は『みなかた くまぐす』と読む!

『南方熊楠』は“知の巨人”とも呼ばれた博物学・民俗学の先駆け的な人物です。

読み方は、『みなかた くまぐす』と読みます。

『南方(みなかた)』という苗字は、日本での苗字の分布を見てみると、和歌山県に一番多いそうです。

いい名前ねっと

実際に『南方熊楠』も和歌山県の出身ということです。

 

下の名前の『熊楠』についての由来は南方家の信仰に関係するそうです。

『南方熊楠』の生まれた南方家は、南方家は、和歌山県海南市にある”熊野神”が籠るという藤白神社を信仰していました。
藤白神社は子守楠神社と呼ばれ、
・藤白の「藤」
・熊野の「熊」
・大楠の「楠」
の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習があり、南方家の子どもたちは、全て藤白神社から名を授けてもらっています。熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かったということです。

 

『くまくす』とは読まない?

ゲゲゲの鬼太郎でお馴染みの水木しげるさんが描いた漫画には、『南方熊楠』をモデルにした漫画があるのですが、そこでは『くまぐす』ではなく『くまくす』というタイトルで描かれています。

くまくす

kodansha

水木しげるさんは『南方熊楠』という人物に魅了されていたそうで、晩年の作品で多く『南方熊楠』をモデルにした作品を描いています。

タイトルを『くまぐす』ではなく、『くまくす』としているところの理由は不明ですが、水木しげるさんの中で愛称、ニックネーム的な何かがあったのかもしれませんね。

他にも「猫楠」「怪傑くまくす」「怪少年」「てんぎゃん」などの作品で『南方熊楠』を描いていて、さらにまだ陽の目を見ていない作品もあるということです。

水木しげるさんは、”奇才”とも言われる『南方熊楠』に随分と魅了されていたようですね!

 

 

南方熊楠の近代日本の天才博学者の生き方wiki!

奇才”、“知の巨人”、”日本人の可能性の極限”などと呼ばれた博物学・民俗学の大家である『南方熊楠』ですが、史実によると「日本植物学の父」と称される牧野富太郎と『南方熊楠』の2人は文通は交わすものの、実際に出会うことはなかったと言われています。

そんな気になる『南方熊楠』の生き方を見ていきましょう!

 

その1,出身は和歌山県で東京大学は中退!

1867年4月15日和歌山県の金物商・雑賀屋を営む両親のもとに生まれました。

実家の商品の鍋や釜を包むための紙が山と積まれていたことから、熊楠は幼いころからそれらの紙に書かれた絵や文字を貪り読んでいたそうです。

学問に興味を持ったのもそんな幼い頃からだそうで、父親の前妻の兄が残した書籍を読んでおりんでいたことで、学校に入る前から大抵の漢字の音訓を読めるようになっていました。

幼い頃、あまり書籍を買ってもらえなかったため書物を借覧しては、記憶しながらの筆写をしていたことで、熊楠の『筆写』で行なうという学問スタイルが培われたようです。

性格的には幼いころから持病の「癇癪」があり、後にその対処療法として”採取→整理記載→標本作りを行っていたと、本人が綴っています。

その後、和歌山中学校を卒業し上京し、1884年(明治17年)9月、東京大学予備門に入学するものの、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れていました。

海辺の動物を採取したり貝類を購入したり。

また、動物、植物、化石に鉱物など森羅万象ありとあらゆるものに興味を抱き、採取していたそうです。

そんな学生生活を送っていた結果、期末試験で代数1課目だけ、合格点に達することができず、落第してしまい、東京大学予備門を中退したということです。

ちなみに、当時の東京大学予備門での『南方熊楠』の同級生には、夏目漱石や正岡子規などもいたそうですよ!

 

あらゆるものへの興味がありすぎて落第してしまうところは、やはり人とは違う”何か”を持っていたのかもしれませんね!

 

その2,日本に縛られたくない!アメリカからイギリスへ!

東京大学予備門を中退した『南方熊楠』は、故郷の和歌山へ帰郷します。

そして心機一転、自由な学問ができる新天地を求め留学を決意し単身アメリカへ!

当時外国に留学するには莫大な費用がかかったそうですが、その頃、実家の南方家の財力は頂点に達していたということで、『南方熊楠』の留学費用には全く問題はなかったそうです。

1887年:パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。
さらに同年8月にミシガン州農業大学(現在のミシガン州立大学)入学。

当初は商業を学ぶつもりであった熊楠だそうですが、結局大学に入らず、東京大学予備院のときと同じように、

自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、曠野林中に遊びて自然を観察す(履歴書)」

という生活を送っていたそうです。

この頃に標本作製を学び、次はアメリカだけでなく文化の発祥地「イギリス」に行きたい!と熱望し、イギリスに渡ります。

1893年(明治26年)、科学雑誌『ネイチャー』10月5日号に初めて論文「極東の星座」を発表し、その後大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得ました。

東洋図書目録編纂係として勤務する間も、考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続いたそうで、この間に科学雑誌『ネイチャー』にもさらに論文を寄稿しています。

とにかく好奇心旺盛で書物を読破することを求めていた『南方熊楠』にとっては、最高の仕事だったのではないでしょうか?

イギリスでの生活の間に、ロンドンに亡命中であった孫文と知り合い親交を始めたそうで、2人は後々まで深い親交を続けたそうです。

その後、大英博物館の閲覧室で、監督官との口論を起こし、追放の通知を受けてしまいます。また、実家の財政も苦しくなっており、熊楠への仕送りを中止する旨の通達を受けたことから、14年ぶりに日本へ帰国の途に着くこととなりました。

 

 

その3,日本に帰国し、和歌山県で収集と研究に没頭!

帰国後の熊楠は、大阪の理智院、和歌山市の円珠院に居住し、最終的に和歌山県の田辺を永住の地と決め、そこで結婚もしています。

帰国した翌年には、孫文も和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温めたそうです。

和歌山での熊楠は、今までにも増して採集→整理記載→標本作りという生活スタイルを送りました。

科学雑誌『ネイチャー』への寄稿も続け、あらゆる分野での論文を発表しています。

また、日本の民俗学者の第一人者、柳田國男とも文通で親交を深めており、その中で「植物棲態学 ecology」という、日本で初めて自然保護活動「エコロジー」という言葉を使ったのでした。

和歌山県の田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注ぎ、結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となりましたが、熊楠がこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴え、地域の自然を保護する熊楠の運動は自然保護運動(エコロジー活動)の先がけとして高く評価されているそうです。

今では当たり前に使っているエコロジー活動という言葉が、『南方熊楠』によって日本で初めて使われ、今日に至っているなんて、驚きの事実ですね!

1929年(昭和4年)6月1日に昭和天皇を神島に迎え、ご進講を行った『南方熊楠』。

昭和天皇に粘菌標本を献上する際、献上と言えば桐の箱などが通常のところ、大きなボール紙製のキャラメル箱に入れて献上して、昭和天皇を驚かせた、という有名なエピソードもありますよ。

常識には捉われない、自分の思うように生きた『南方熊楠』が、垣間見ることができますね!

 

まとめ

『南方熊楠』は『みなかた くまぐす』と読みます。

 

『南方熊楠』は、探求心の塊で、森羅万象あらゆることに興味を抱き、採集→整理記載→標本作り

というスタイルを貫きました。

また、持病の「癇癪」持ちだったことや、一説には20か国語近くを操ることができたという並外れた記憶力から、

奇才”、“知の巨人”、”日本人の可能性の極限

などと呼ばれる一方、孫文柳田國男など著名な人物との親交も深かったという、非常に興味深い人物であったことが分かりました!

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