【らんまん】考察3選!矢田部良吉の非職の理由とは?

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NHK連続テレビ小説【らんまん】。

「日本植物学の父」と称される牧野富太郎がモデルの物語。

神木隆之介さんが主人公・槙野万太郎を演じ、江戸末期から昭和の激動の時代を生き抜き、明るく草花と向き合い続けた人生を描いています。

その中で、要潤さん演じる田邊教授が教授職を非職し、史実通りの展開となり、その非職理由がSNSでも話題となっています。

ここでは田邊教授のモデルとみられる植物学者・矢田部良吉教授が非職になった理由を見ていきましょう!

矢田部良吉の非職の理由とは?

植物学者の矢田部良吉(やたべ りょうきち)教授は、1851年10月13日(嘉永4年9月19日)生まれ、1899年(明治32年)8月7日)に亡くなった明治時代の日本の植物学者、詩人、理学博士です。

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植物学者としていくつかの命名を行い、アジサイ科のキレンゲショウマという植物の学名 (Kirengeshoma palmata Yatabe) は矢田部良吉教授によるものだそうです。

ドラマでは要潤さんが矢田部良吉教授を演じています。

明治4年、アメリカ合衆国に渡り、日本人で初めてコーネル大学で植物学を学びました。

コーネル大学を卒業後は帰国し、東京開成学校五等教授、そして東京博物館(現・国立科学博物館)の館長を任ぜられています。

明治10年8月には、博物館長を解任、東京大学理学部教授となったのです。

東京植物学会(現・日本植物学会)を設立、ローマ字論者で羅馬字会を設立。

また、訓盲唖院(後の東京盲唖学校)校長、東京高等女学校校長を兼任するなど多くの功績を残しています。

 

そんな様々な活躍の中、東京大学理学部教授を非職。

そこには矢田部教授の人柄や功績、また、日ごろから講義は英語で行っていたこと、当時の鹿鳴館でダンスに夢中だったこと、など多くの推測がされています。

非職理由の考察【3選】!

新種の発見、「キレンゲショウマ」を命名という快挙からの急展開で大学を追放された矢田部教授の非職の理由とされているのは次の3つです。

 

その1、帝国大学理科大学学長の菊地大麓との確執?!

実在の牧野富太郎による『牧野富太郎自叙伝』では、矢田部教授の非職について、「その原因は、菊地大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる」とされています。

女学校や盲唖学校、また帝国大学評議会における諸学務を手放し、いよいよ本務たる植物学研究
に集中しようと動き始めたその矢先の非職(休職)だったのです。

実際、その非職は植物学教室史に思い出として書かれるほどあまりにも突然で、学生たちにも動揺が広がったといわれているようです。

当時、帝国大学理科大学学長であった菊地大麓教授とは、明治31年(1898)には東京帝国大学総長に、明治34年(1901)には文部大臣になった人物で、東京大学教授となったのは矢田部教授と同じ明治10年(1877)だったそうなので、ライバル関係にあったことが想像されますね。

ただ、菊池大麓教授は実在の牧野牧野富太郎が矢田部教授から研究室への出入り禁止を申し渡されたあと、同情してくれた人物としても名前が出てくるので、複雑な人間関係と権力的なものがあったのかもしれないですね。

 

その2、不人望?!

当時の矢田部教授は、日本人離れした考え方を持ち、スキャンダラスな行動など研究以外での噂やお騒がせな部分もあったようです。

『牧野富太郎自叙伝』にも、「西洋かぶれで、鹿鳴館でダンスに熱中したり、先生が兼職で校長をしていた一橋の高等女学校の教子を妻君に迎えたり、『国の基』という雑誌に『良人を選ぶには、よろしく理学士か、教育者でなければいかん』と書いて物議を醸したりした。当時の『毎日新聞』には矢田部先生をモデルとした小説が連載され、図まで入っていた」ということも書かれています。

当時、商法講習所で教鞭をとっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘、クララに言い寄って嫌われたときのやり取りにもあるように、矢田部教授はどこかお騒がせな人物であったことも伺えますね。

「快活で垢抜けていて、外国風に洗練された自分の物腰を誇りとしている。…」

(矢田部教授が結婚することになったニュースを聞いて、)

「とにかくお目出たいことだ」「私はあの人を追い払うことができて有りがたい。あのうぬぼれと取り入るような態度は気にくわない。初めの珍しさが消えてからは、あの人がきらいになった。母は初めからきらっていた。…」

                        ≪『クララの明治日記』≫

クララという少女の目を通した普段着の様子が活写されている中で、矢田部教授はたびたびホイットニー家を訪れ、突然訪問して長居したり、なれなれしくクララの手をとったり、週に何度もやってきたりと、クララたちをうんざりさせていた様子も描かれています。

矢田部教授が少々自意識過剰気味で、多少の虚言癖もあり、他人に対する思いやりに欠けていた?なんてことも要因の一つなのでしょうか?!

 

その3、放任主義と多忙のため?!

また、マイペースで放任主義の講義をする、という矢田部教授は英語に堪能で、当時の風習によって英語で講義を行っていたそうです。

矢田部教授の植物学教育は、従来の本草学とは一線を画していそうで、自らが学んだコーネル大学の植物学と、その設備が矢田部教授の頭にはあったと考えられます。

当時の学生の回顧録からは、

「先生は英語で顕花植物の分類を講じ、各科の性質から主なる属の性質を説明したもので、…(中略)…斯んな訳で、其頃は別段隠花植物の系統的な講義もなく、生理学なぞは殆ど全くゼロで、類化作用は確かに講義中にはあつたが呼吸作用はどうであつたか記憶に残つて居らぬ位である。一体先生は恬淡豪放で放任主義であつたから、学生の実験などは何を見て居様とも差支なく、ホンの時々見廻つて顕微鏡を覗いていく位であつた。夫も其筈、先生は其頃いろいろ他に兼務があつたから…」

≪『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』所収「青長屋 - 本邦生物学側面史 -≫

などと書かれています。

コーネル大学で学んだ矢田部教授の授業は、今までの日本の植物学の授業の内容や進め方とかけ離れていたので、異を唱える意見も多かったのかもしれませんね。

また、今では考えられないほどの兼職をこなしていた矢田部教授。

「植物学科では唯一の教授が学生に充分な授業を行えず、講義は外国で出版された教科書を英語で伝えるという形式だった…(中略)…実習や実験を満足に行えない教育者はもはや許されなくなった。」                 ≪『評伝 三好学』≫

というように、放任主義で生徒たちからの信頼も薄くなり、更に教育者としても信頼度が下がってしまっていた?とも考えられそうですね。

 

まとめ

今回調べてみて分かったように、様々な憶測の中での矢田部良吉教授の非職ですが、矢田部良吉教授が優れた植物学者であり、多くの功績を残していることも確かなことです。

非職を命じられた後も『日本植物図解』の出版に取りかかっていた矢田部教授は、「満期」として正式に東大を免職になるまで、粘り強く植物学上の執筆と研究を続けたそうです。

矢田部教授の植物学にかける意思を感じますね。

 

【らんまん】での史実に基づく今後の展開がますます楽しみになりますね!

 

 

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